三線(沖縄三味線)

代表的な沖縄民謡『安里屋ユンタ』の歌詞はどう変わっていったのか?

三線を使って初めて練習をしたのが『安里屋ユンタ』だったという人も多いと思います。

それくらい、『安里屋ユンタ』は沖縄民謡として代表的な曲です。

 

ただここでいう『安里屋ユンタ』は、八重山諸島の竹富島で最初に歌われていたものとは変化しています。

1934年に本土の言葉で作られた『安里屋ユンタ』で『新安里屋ユンタ』とも言います。

 

『安里屋ユンタ』についてはこちらの記事で書いてあるので参考にしてください。

ここでは、八重山諸島の竹富島で最初に歌われていた『安里屋ユンタ』

それに節や三線の演奏がついた『安里屋節』

本土の言葉での『安里屋ユンタ』(新安里屋ユンタ)

それぞれ歌う地域によっても歌詞が違うのですが、おおよそ内容は同じようなものになっています。

これらの歌の歌詞を紹介していきます。

Contents

最初の『安里屋ユンタ』

『安里屋ユンタ』には、23番までの歌詞があります。

歌詞と現代語訳を比較しながら紹介していきます。

1.安里屋のクヤマによ
サーユイユイ
あん美らさ生りばしよ
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

2.目差主ぬくゆだらよ
サーユイユイ
あたろやぬ望むたよ
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

3.目差主やばなんばよ
サーユイユイ
あたろややくりやおいす
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

4.んばでからみしやさみ
サーユイユイ
ベるでからゆくさみ
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

 

1.安里屋のクヤマ女は
素敵な美人に生れていた

2.目差主(役人)に見染められ
当る親(与人役人)に望まれた

3.目差主は私はいやだ
与人役へご奉公させた

4.いやというならよろしい
嫌いならそれでよい

ここまでは、

八重島諸島の竹富島の安里屋という農家にクヤマという美しい女性がいた。

目差主という役人に見初められ、村の親とも言われる与人役人も気に入っていた。

クヤマは、目差主は嫌いだと断り、与人役人の元へ奉公に行きます。

 

つまりお役人だった目差主はクヤマに振られてしまったということですね。

この目差主というのが、当時、人頭税などを扱う役人であったため、ふつうであったら庶民であるクヤマは断ることができません。

そこを断ったクヤマの勇気と反骨精神が讃えられています。

 

これ以降も、『サーユイユイ』や『マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ』が入りますが省略します。

5.んばですぬみるみん
べるですぬすくみん

6.仲筋にぱりおり
ふんかどぅに飛びやおり

7.村くりし見りばどぅ
道廻りし聞きばどぅ

8.乙女ぬ いかゆてぃ
美り子ぬ 通らゆてぃ

9.たるが子で 名問ゅたらよ
じりが子で 名聞くたらよ

10.兼間子ぬ イシケマよ
蒲戸子ぬ 乙女よ

 

5.いやといった奴のツラ当てに
嫌いといった奴に聞かすために

6.仲筋に走って行き
組角(フンカド)に飛んで行って

7.村を繰りまわって見たら
道を廻りつつ聞いたら

8.乙女に行き逢った
素敵な美人に出合った

9.誰れが子で何んという名か
何れが子で名を尋ねたら

10.兼間か子のイシケマであります
蒲戸か子の乙女であります

5番からは、クヤマに振られた目差主が、クヤマを見返すために、クヤマよりも美人の女性を探しまわる歌になります。

村の中を走り回っているうちに、目差主は、クヤマを越える美人に出会います。

いったいどこの誰なのかと問うたところ、

「兼間の子でイシケーマと言います。母親はカマドです」

と答えました。

 

目差主はクヤマよりも美人のイシケーマという女性に出会うことができました。

続いて11番以降にいきます。

11.兼間家に 走りおりよ
蒲戸家に 飛ばしおりよ

12.兼間子や ばぬんひりよ
蒲戸子や くりやおいしよ

13.欲しやでから さりおりよ
望むから まきおりよ

14.あまぬ さにしゃん 抱いだぎばり
きゃんゆ
どぅくぬ愛さんや 地やちよん
かむさなよ

15.ンブフル道からよ
石ふだぎ道からよ

16.玻座間村さりおりよ
親村に抱きおーりよ

 

11.兼間家に走り行って
蒲戸家に飛んで行って

12.兼間の娘を私に呉れよ
蒲戸の女をこちらによこせ

13.欲しいなら連れておいで
お希望なら連れていって下さい

14.余りの嬉しさに抱きしめて
走ってきたのよ

余りの可愛さに土さえも踏さないで
抱き上げて走ってきたのよ
15.ンブフル(地名)の坂道から
石段の坂道から

16.玻座間村に連れて行きなさい
親村に抱いてお出でよ

美しいイシケーマに出会った目差主は、すぐにイシケーマの両親に会いに行きます!

娘が欲しいという目差主に対して、素直なイシケーマの両親は、

「目差主ほどの方がそういうのでしたら連れて行ってください」

と了承します。

これに喜んだ目差主。

あまりの嬉しさに、イシケーマを抱きしめ、地面につかないように抱き上げて走って帰ります。

 

目差主の喜びようがなんだか可愛らしくていいですよね。

続いて最後、17番から23番です。

17.ういか家ぬ浦座によ
目差家ぬ座敷によ

18.台取らし見りばとよ
酌取らし見りばとよ

19.台取りぬ美しやぬよ
酌取りぬちゆらさぬよ

20.八折屏風ぬ なかなんが
絵書き屏風ぬ 内なんが

21.腕やらし 寝びどぅしょうる
股やらし ゆくいどぅしょうる

22.男な子ん くぬみどぅしょうる
女な子ん 作りどぅしょうる

23.男な子や 島持ち生りばし
女な子や 家持ち生りばし

 

17.ウイカ家(役人の宿舎)の浦座敷に
助役宿舎の座敷で

18.杯台を持たして見たら
お酌させて見た所

19.杯台の持ち方が大へん美しかった
お酌のし方が上品であった

20.八折屏風の中で
絵画屏風の内で

21.腕を組んで寝むった
股を交叉してやすまれた

22.男の子も宿らせるように
女の子も妊娠させるように

23.男の子は島の統治者のように生まれている
女の子は良妻賢母に生まれるように

さて、家にイシケーマを連れて帰った目差主。

いざ祝杯をあげようとすると、イシケーマの作法が正しく、お酌の仕方も上品であった。

その後、契りをかわした目差主とイシケーマ。

そして最後は、子どもの誕生を願う気持ちを込めて『安里屋ユンタ』の終幕となっています。

 

かなり長くなりましたが、ここまでが最初の『安里屋ユンタ』になります。

『安里屋節』

1.安里屋ぬ クヤマによ
目差主ぬ 乞ゆたらよ
ウヤキ ヨーヌ 世バ直レ

2.目差主や 我な んぱよ
当たる主や 此りゃ おいすよ
ウヤキ ヨーヌ 世バ直レ

3.んぱてぃから みささみよ
べーるてぃから ゆくさみよ
ウヤキ ヨーヌ 世バ直レ

4.んぱてぃすぬ 見る目よ
べーるてぃすぬ 聞く耳よ
ウヤキ ヨーヌ 世バ直レ

 

1.安里屋のクヤマに
目差主は 求婚したが
豊カナ世ニ直レ

2.クヤマは目差主の求婚を断った
与人様に「私をお預けします。」
豊カナ世ニ直レ

3.目差主は「嫌ならよい」
「嫌と言うなら それでよい」
豊カナ世ニ直レ

4.「嫌なら 目にものを見せてやろう」
「嫌なら それでよい」と
豊カナ世ニ直レ

最初の『安里屋ユンタ』は労働歌として庶民によって歌われていました。

『安里屋節』は、『安里屋ユンタ』を元に、節と伴奏を加えたものです。

 

ここで三線の登場ですね。

三線は役人によって持ち込まれたものです。

当時は三線はまだ庶民に広がっておらず、士族のものでした。

それまで庶民の労働歌でしたが、そこの部分が減ったため、曲調もゆったりとしたものに変わります。

現代の『安里屋ユンタ』(新安里屋ユンタ)

 

【一番】
サー 君は野中の茨の花か
サーユイユイ
暮れて帰れば ヤレホンニ 引き止める
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

【二番】
サー 嬉し恥ずかし 浮名を立てて
サーユイユイ
主(ぬし)は白百合(しらゆり) ヤレホンニ ままならぬ
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

【三番】
サー 田草(たぐさ)取るなら 十六夜月夜(いざよいつきよ)
サーユイユイ
二人で気兼ねも ヤレホンニ 水入(ミズイ)らず
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

【四番】
サー 染めてあげましょ 紺地(こんじ゙)の小袖(こそで゙)
サーユイユイ
掛けておくれよ 情(なさけ)の襷(たすき)
マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ

現代の『安里屋ユンタ』は、本土の言葉としてレコードになりました。

意味はなんとなくわかりますよね。

それまでのクヤマと目差主との話ではなく、田園での男女の恋の物語が歌になっています。

「マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ」は、

「また逢いましょう、美しき人よ」 という意味になります。

 

より一般大衆に支持されるように変化してきたということでしょうか。

個人的には、最初の『安里屋ユンタ』の歌詞も好きなんですが。

終わりに

『安里屋ユンタ』は三線を学んでいくと必ず練習する曲ですね。

でも、『安里屋ユンタ』の由来と歌詞がどうもかみ合っていないのがずっと気になっていました。

そこで、自分の勉強の意味も込めて、

〇『安里屋ユンタ』

〇『安里屋節』

〇『新安里屋ユンタ』

の歌詞を紹介させていただきました。

同じような疑問を持った人の参考になっていれば嬉しいです。